昭和54年12月24日  朝の御理解  ●② ③  大坪かよこ

御理解第71節
 ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供があるものや日傭取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参ってくることはできぬ.まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。



 何でも同じでしょうけれども、けいこということになると、やはりけいこの材料がなからなければ、でけません。
お花のけいこをたとえばさして頂いても、あの、お花という材料がなからなければ、けいこはでけません。
お茶の稽古をするというても、やはりそれぞれの、小道具から様々なものがたらわなければ、でけません。
信心のけいこもやはりそうです。
だから、ここには信心の稽古に来るところとこう仰るのですから、ただ話を聞くばかりが脳ではない、いわゆる話を聞くばかりがけいこにゃならん。
銘々が、そこにけいこの材料を持って、そして稽古に来なければならん。
ね、それぞれにあります、そしてその、けいこの焦点は、どこに置くかと、ね、けいこにはまず材料がいる。
なら、そのけいこの焦点は、どこに置くかと。
皆さんどう思われます。ね、信心をして身に徳を受けて、それこそ限りない人間の幸せを頂きたい。
あの世にも持って行け、この世にも残して置けるような徳を頂きたい。
これはおかげの、いうならば願目ですわね。けども信心の願目というのは、どこに置かなければならないか、皆さんはどこに置いておられるであろうか。
ね、おかげの願目だけは確かにあっても、ね、いわゆるけいこの願目というのが、狂うたんではおかげになりません。
ほんとに、昨日、今日申しておりますように、肉眼を置いて、心眼を、ま、開くけいこ、ああ、なるほどと分かったら、それを実験、実証していよいよ、本当なことが分かる。
だから、その本当なことが分かるということは、ま、いうならば、真理が分かり、法則が、天地の法則が分かるということでしょう。
ね、分かったら、その法則に従い、その真理をいよいよ追究していくということにならなければなりません。
ね、それをいよいよ実感して分からしてもらう。
ね、それこそ今を喜ぶ、今を喜ぶということはどういうことと思うんです。
今、何かを頂いたから有り難い、頂かなかったから、有り難い、頂かなかったから残念、というようなものではないですね。
何を頂くか、それこそ尽きぬおかげの世界の中に住まわせて頂いておる、神様の御神愛の中に、日々生活さして頂いておる、それを、実感としてです。
私がここ、昨日、今日感じておるように、もうどこを切っても、どこを思うても、何をしておっても、ね、喜ばねばならないことばっかり、ということであると同時に、私の心の中に、いつもその、どこ、こう、どん、時に思うて見ても自分の心の中には、有り難いことだなー、有り難いことだなーという喜びだけしかない自分に気付かせて頂いて、どうしてこう言うように有難くなってきたんだろうかというと、今日の皆さんにね、願目を言っておる、ね、おかげの目当てはそれこそ、あの世にも持って行け、この世にも残しておける、人間の幸せの条件のすべてがたろうて来るような、おかげを頂くということが、いわゆるおかげ目当てなんですよね。
そういうおかげを頂かなきゃならん、目先のひと事、二事頂いたから、というようなことでは、いけません。
ね、それにはなら、ここには信心の稽古に来るところとおおせられるから、ならそのけいこはどういうふうにして稽古をしていくかと。
お互いが持っておる、ま、良いこと悪いこと、すべてのことを信心のけいこの対象とさしてもらう、いうなら、材料は充分に、皆さんは持っておるはずなんだ。
ね、だからその材料はどう活けこなす、いうならば活けこなすか、頂きこなすかということなんです。
ね、だから、それを活けこなし、または頂きこなしさしてもらって、信心が進んでいくんです。
ね、そんなら、どこをいうなら信心の、いわゆる信心をけいこさして頂く目的は、どこにあるかというとね、我情我欲を離すことです。
いつの場合でも信心の願目はこれです。
ね、ここを頂かずして、いうなら、おかげのいうならば、ギリギリの焦点はお徳を頂くということ、あの世にも持っていけ、この世にも残しておける、日々は、人間の幸せの条件が一つ一つたろうてきて、有り難いな、勿体無いなと、ね、いつでも、どこででも、心の中にはね、喜べといわんでも喜びの心がある、というほどしのおかげを頂くためには、いろんなけいこをさして頂くたびたびに、はー、これは、我情があるからだ、我欲があるからだと気付かせて頂いて、その我情を我欲を取り除いていくけいこが信心のけいこをさして頂く、ま、願目であります。
だからこそ、我が身は神徳の中に生かされてある、という実感が、これに通うてくるんです。
ね、今を喜ぶということは、我が身は神徳の中に生かされてあるという実感が、強ければ強いほど、素晴らしいのです。
どういう中にあっても、我が身は神徳の中に生かされてある、ためには、ね、いわゆる我情を取らなければいけない、我欲を取らなければいけない。
ね、日々、様々な信心のけいこの材料を皆さんが持って見えられる。
して、その信心の、いうならば、毎日願わなければならないこと、御礼を申し上げなければならないこと、または、お詫びをしなければならないこと、色々けいこの材料があります。
ね、そして詫びることの上にも、願うことの上にも、御礼を申し上げることの上にも、ね、必ずそうてはなければなならんのが、我情を取ることであり、我欲を取ることである、ということなんです。
段々取れてくる、ね、まず我情が取れてくる、はー、右にしたり左にしたり、とこう思うておったことが、ね、も、それを思わんで済むようになる。
ね、もちろん段々我欲もかげを潜めてくる。
欲がある間は、なかなか有り難いという心が生まれてこない。自分の都合の良かときには、有り難いけれども、都合の悪い時には、ね、ほんな、あん奴のおかげで損した、といったようなことになってくる。
もうギリギリ願目、その、信心、信心の願目はね、我情我欲を取ることにあるということです。
だから、果たしてどういう、どんな願い事をする、信心の稽古をさせて頂いておるその焦点は、自分の我情を取り、我欲を取る、知ることのためのそれだというて良し、材料だと言うてもいいのです。
ね、教祖様は、しゃっと仰っておられるように、我情我欲を離れると、そこには我が身は神徳の中に生かされてあるということが、もう分かるようになる。
もう実感として、私が昨日、今日感じておる、ね、喜ばなければおれないことばっかりの中にある自分ということが分かるのです。
そこに、私は、この世は極楽ということになるのじゃないだろうか、ね、その心で神様へ向こうていく、その心で、神様の願いにこたえ奉る。
ね、今それを一番端的にいうならば、御造営のことに一生懸命にならせてもらう。
神様の願いにこたえることである。
もういよいよ、喜びは、尽きぬ喜びになってくるだろう、小さい喜びは、大きな喜びに、それこそ雪だるまのように大きくなっていくでしょう。
ね、信心の稽古をするというても、ね、材料がなからなければ、けいこは出来ん。ね、その信心のけいこの焦点は、我情を取ることであり、我欲を取ることであるということでございます。
これは信心の願目、ね、何を目当てに信心しよんなさるですかと。いやそれはおかげを頂くため、どういうおかげですか、あの世のも持って行けれ、この世にも残して置ける御神徳、この世では人間の条件が、一つ一つたろうてくる。不健康なものは、健康に、金に不自由しておるものは、金に不自由せんで済むほどしの、ね、人間関係も、ほんとに和の世界にあるということを、頂くために信心の稽古をさせて頂いておる。
なら、そういう信心の稽古をさせて頂いておるその信心の願目になるものは、そういうおかげが如実に、自分のものに頂けれる感じれることのために、一生懸命問題があるたんびんに、我情を取る、難儀を感ずるたんびんに我欲を取る。
このけいこがなかさらなければ、ならんのです。
だから、教会にいろんな 大きななことが起ったり、教会に、いうならば、御造営があったりというようなときには、昔から、言われておりますよね、お徳の受け時だといわれております。
ね、それもたとえば、見きわめをつけなければならないことは、ね、なら、いくら教会のことであっても、ね、教会長先生が、自分が先頭に立ってやるござることに、これは奉賛しても、こりゃ大したことはなかろうごたあるですね。
神様が先頭に立って、たとえば御造営なら御造営を思い立ってござるなーと、見て聞いて分かったら、ね、その神様のお働きに奉賛すること、いうならば、神様の手にも足にも成らして下さいというような頂き方に、一生懸命、それこそ一生懸命にならせて頂かなきゃならない。
ね、もう、人間のおかげのいうなら、もとというかね、昨日月次祭にも話しましたように、佐田さんが頂いておられる、もうあっちからも、こっちからも限りなく沢山のお金が集まってくる、そこには蜂が二匹おったという、蜂のお知らせはここでは一生懸命ということ。
命がけということ。命がけというと、何かこう、大変厳しいようであるけども、とにかくい一生懸命になるということ。命、一生命を懸けると書いて、一生懸命ということ。
●③ ね、これは私の数十年前の、まぁ、いうならば、修行時代ということになりましょうか、ね、これはね、一生懸命ということは腹を決めるということです。
たとえて言うとね、私の上に起きてくるどんな問題であってもです、それを合掌して受ける、このことだけは受けるけれども、このことだけは受けられません、というものではなくて、ね、もう私の上に 起きてくる事はどういうことでも、修行として受けさせて頂くという腹が決まるということが一生懸命です。
ですから、その一生、いろんなことがありました。
ね、いろんな事が起ってまいりましたけれども、それを今考えてみるとひとっつも、苦になっていないということです。
期せずして、我情が取れ、我欲が取れておったな、というふうに思うのです。
ま、たとえてお金をくれという人がある、お金を貸してくれという人がある、もうそれこそお賽銭箱ひっくり返してあげよったです。
いっちょん難しいことなかったです、それが、おしかなー、と思うたこともなかったです。もう黙って受けると、こう腹を決めておるですから、もう棒も端にもかからんような病人を預かってくださいという、は、そりゃ、そげな病人は困るばの、ちゅたことは一辺もありません。
もう腹を決めとくとですね、もう、問題じゃなくなってくるです。
そしていつの間にか、我情が取れ、我欲が取れておることに、びっくりするほど気がつきました、ね、いうなら、私はおかげを頂いて、信心の、いうならば願目を間違えてはいなかったということになります。
ね、そして今日のおかげの世界に住んでおるのです。
ね、いつの間にか心もう豊かに大きくなった、ま、そりゃ大したこともありませんけれども、あの、ま、最近誰よりも大体豊かにしておれれるという感じがするんです。しかしこれはまだ限りがありません。もっともっと豊かに、もっともっと大きくなっていくことでしょう。
そのけいこを毎日しているんですからね。
●② ね、だから、豊かなものにも、ものにも、豊かなお金にも、一切のものが、に不自由しないですむというおかげを頂いておるわけです。
ね、だから、皆さんがおかげの、いうならば、願目は、もう、一言二言ではなくて、あの世にも持っていけ、この世にも残しておける、そして人間の幸せの条件が足ろうてくるというおかげを頂きたいために、一生懸命参りよります、というていいわけなんです。
ね、なら、その、一生懸命参りよりますということは、どこんですかと、教会んですよ、教会には、だからそのための稽古をしに行きよるんですよ、ということになるわけです。
なら、その信心の、なら、けいこの願目はどこにおいてありますか、というと、もう材料はいっぱいありますから、この材料さえ持ていきゃ、このいうならば、活かし方、いけ方がちゃっと教えて頂きますから、ということになるのです。
そして活け上げた、たとえば花なら花を活け上げた時の、いうならば、まぁ、気分というものです、ね。
まぁ、けいこが段々積んでいけば積んで行くほど、楽しゅうなってきます、愉快になってくるんです、ね、起きてくる問題、それが、もうすぐに即おかげのいうならば、いや信心のけいこの材料と頂けるわけです。
ね、それをまたの言葉では神愛と、こう頂いておるわけです。
ね、それによって改まり、これによって磨いていくという、もう、手につけ足つけ磨くこと、いうならば、改まっていくこと、それをいうならば、ね、もう一切のどういう問題のことであってもです、そのことによって我情を取り、そのことによって我欲を取っていくという生き方、ね、そういうけいこを、皆さんは、させて頂いておるわけであります。
ここには信心のけいこに来るところと、ね、どれだけのものをけいこしてかえっておるかと。
まめなとき、ここに参って信心のけいこをしておけと最後に言っておられます。
ね、ところがね、時々この辺の所は、穿違えて何か困ったとき、教会には参る、といったような人がありますよね。
まめなときじゃないわけです。まめなときには、家で遊んでばっかりおると、たとえば言うと。
ね、そのうちで、まぁ遊んでおるという人はありませんでしょうけれども、まぁ、信心を遊んでおる時ですわね、信心をおろそかにしておるときです。
ね、平穏無事でおかげお頂いておるというときほど、いうなら、まめなときですから、そういうときそれこそ、朝参り、夜参りさして頂いてでも、本気で信心の稽古をさせて頂いとかなきゃならんと、教えておられます。
家に病人があったり、子供があったり、日庸とりやらは中々、そう出てくるわけにはいかんと仰ることは、ね、ただ、暇がなからなけれ、あるもんじゃなからなければ、というのではなくて、ね、いつもまめなとき、ね、いうならば、願うことは、もうお願いすることはありません、というようなときに、しっかり信心のけいこをしておけとこう仰る。
ね、ここには信心の稽古に来るところ、まめなとき、ここへ参って、信心のけいこをしておけと、もう、始めと最後に、そのけいこけいこということを仰っておられます。
ね、お参りをしておるけれども、けいこになっていない。
ね、材料は持っておるのにそれを、活け上げようとか、生かそうとする精進をしていない。
これでは、勿体無い話です。
まあ、一つ本気でね、我情を取るけいこをして御覧なさい。
ね、まぁ、我情というのは自分が、ああありたい、こうありたい、をこうしてもらいたい、と思うことを、そりゃ思いますから、そりゃ、神様にお取次ぎを頂いて、お願いをしたら、もうあとは、もう神様にお任せして、帰るということです。
だから自分の思いは、その場でなくなってくる。
ね、我欲は、ま、なんて言うでしょうかね、ま、惜しい、ほしいといったようなことじゃないでしょうかね。
そういう心が、いつの間にか取れてくるような、おかげを頂くために、ね、一つ本気で、いうならば、蜂の信心をして頂きたい。
しかも、二匹の蜂ということは、はちに蜂が重なって行くということは、広がりに広がっていくということ、ね、それにはね、ほんとに一生懸命な、そのことに命を懸けると言うほどしの一生懸命のものがなからなければならんということ。
不思議、一生懸命になったら、きつかろうとか、苦しかろうとか、ね、無念残念であろうとかということが、みんな、ありが、もうなんでもない修行として、受けていくことがでける。
とにかく、まだ、そこに惜しい欲しいがあったり、ね、腹がたったり情けなかったりするのは、まだ、それに取り組む一生懸命が足りていないときだというふうに、分かったらいいでしょうね。
ひとつ本気で一生懸命になって御覧なさい。信心はいよいよ楽しいものになります。どうぞ。